音声合成ソフトウェア『初音ミク』――。「未来からきた初めての音」がタイトルの由来という。北海道に本社を構えるクリプトン・フューチャー・メディアの大ブレイク商品だ。歌詞とメロディをパソコンに入力すれば、仮想の歌手「初音ミク」が合成音声で歌ってくれる。コンピュータと音の接点をベースに、お客様に喜んでもらえるソフトウェアを追求し続ける伊藤さんに、起業当時のエピソードをはじめ独自のビジネス観などについて熱く語っていただいた。(聞き手:BCN社長 奥田喜久男)
奥田 伊藤さんは今すごく有名でいらっしゃるけど、あまり表には出てこられないですね。
伊藤 いやあ、有名じゃあないですよ。まあ、表に出てこないというのは、地理的に東京ではなくて、札幌だってところも大きいでしょう。それに、雄弁に語るというのが不得意ですし…。仕様書を書いてシステム設計するというのが性に合ってるんでしょうね。
奥田 経営もしっかりとやっておられる。
伊藤 でも、典型的な経営者タイプというのではないですし、クリエイターとか物を作っていく側の立場が合っているんでしょうね。だから外に出る機会は、そんなに多くはありません。
奥田 創業されたのは?
伊藤 1995年の7月です。いきさつから話しますと、会社を創る前は大学の職員をやっていたんです。公務員試験を受けて、ごくごく普通の就職でした。
奥田 勤務先は北海道大学でしたよね。
伊藤 ええ、そうです。それで就職して、赴任した職場が研究室だったんです。高校を出て、公務員試験を受けて入ったのですが、研究室ってところは初めてでしたし、最初はちょっとカルチャーショックというかギャップを感じましたね。でも、自由な雰囲気のある職場でした。実際の仕事は学生と一緒に“研究ごっこ”をしているというような感じもありましたね。学生はみんな同年代でしたし。
奥田 どんな学科の研究室だったんですか。
伊藤 工学部の精密工学科っていうところでした。職員もどんどん研究をやりなさいというような雰囲気で、ちょっと珍しい職場だと思います。そういう環境でしたから、私の前任の先輩も後輩も職員から大学の先生になっています。私も今、北海道情報大学で客員教授として教えています。そういった自由な気風がありましたね。
奥田 そこでコンピュータにも出会われた。
伊藤 そうです、そのあたりからですね。それで、職員ですから異動がありまして、大学の電算管理システムをやるようなセクションに移って、プログラムなんかも本格的にいろいろ覚えていきました。
奥田 音との係わり合いは?
伊藤 幼い頃から音楽が好きで、大きくなってからは趣味でギターを弾いていました。仕事では当時流行り始めたコンピュータをやっていて、趣味で音楽をやっている。つまり、コンピュータと音楽の接点にいたわけです。そうした自分が興味を持ち始めたのが、コンピュータで音楽をつくっていくということだった。マルチメディアパソコンの出始めの頃ですね。大学の研究室にもあって、それを使って音楽というか音をいろいろと加工してつくっていました。
奥田 今のお仕事にだんだん近づいてきましたね。
伊藤 そうこうしているうちに、自分でつくった音をいろんな人に使って欲しいなという思いが膨らんできたわけです。
奥田 どんな音をつくってたんですか。
伊藤 シンセサイザーで加工した効果音みたいなものや、荘厳な感じの小曲やダンスミュージックのようなものなど、いろんな音ですね。それで、そういう音をどうすれば多くの人に使ってもらえるかを考えていたんです。本屋さんに行ったら、たまたま『キーボード』という音楽系の雑誌に出会いました。英語の雑誌で、後ろのほうに個人広告を載せるスペースがあるんです。何ドルか支払えば、誰でも広告が載せられるというものです。三行広告ですね。よし、これに広告を載せてみようと思ったんです。
奥田 どんな内容の広告だったんですか。
伊藤 「自分の音を売ります」、そんな感じですね。
奥田 まだ大学職員の頃ですね。
伊藤 そうです。それがまあビジネスの世界に入るきっかけになったんですね。そうやって広告を出していると、世界中に流通しますから、いろいろな国の人から、エアメールで問い合わせがくる。まだインターネットが普及する前の時代ですから。
奥田 問い合わせはどのくらい来たんですか。
伊藤 段ボール箱一杯はありましたから、1000通近くあったでしょうか。
奥田 広告料はどのくらいでした?
伊藤 1回50ドルくらいだったですね。毎月出稿して、5年くらい続けていました。
奥田 ビジネス的にはどうだったんですか。
伊藤 当時のことですから、フロッピーディスクに音を入れて売るわけですけど、けっして儲かりはしませんでしたね。収支とんとんといったところでした。でも、世界中の人たちと連絡がとれるということが、非常にフレッシュな感じでしたね。今はインターネットがありますから、世界につながることにそんなにフレッシュ感はないかもしれませんけれど。
奥田 そのフロッピー・ディスクは、1枚どのくらいの価格だったんですか。
伊藤 10ドルほどでしたから、千数百円というところですか。そうしているうちにだんだん円高になってきて、収支もとんとんから厳しくなってきて、そろそろやめようかと思っていたところに、逆の話が舞い込んできたんです。
奥田 逆の話というと?
伊藤 世界中の音好きの人とやりとりをしていたわけですけど、そのなかの何人かから「音をつくったので、日本で売ってくれないか」という依頼がきました。海外でつくった音を日本で売る、と。ちょうど円高だったので、有利なわけです。じゃあ、試しにということで、日本の媒体に広告を出して実験的にやってみることにしました。
奥田 どんな媒体ですか。
伊藤 リットーミュージックから出ている『サウンド&レコーディング・マガジン』という、コンピュータで音楽をつくるのが好きな人のための雑誌です。そこに出稿したわけです。ただ、音を売るというのは日本では誰もやったことがないので…。
奥田 当時はまだ、そうだったのでしょうね。
伊藤 ええ、だからうまくいくかどうかはわからなかったけれど、僕自身が欲しいから他の人も欲しいだろうという安易な考えで始めました。でも、やっているとそこそこ物も動くし、だんだん引っ込みがつかなくなって、会社を立ち上げたわけです。
奥田 それは何年のことですか。
伊藤 1995年の7月です。
奥田 二足のわらじの時代がけっこう長かったんですね。
伊藤 そうですね。自分の音を世界に売ることを88年頃から93年頃まで5年間ほどやっていて、そこからさらに世界の音を日本で売るビジネスを始めて、95年に会社を作った、というのが経緯です。
奥田 だんだんビジネスっぽい話になってきました。
伊藤 会社をつくって最初に決めていたことは、音に特化したことだけをやろうということでした。いろんなところに手を伸ばしても、結局中途半端になる、音だけで商売をやっていこうと。
奥田 売る相手は?
伊藤 番組を制作するテレビ局や映画会社、ゲームをつくるプロダクションなんかですね。非常に限定的なジャンルなので、マーケティングはしやすい面があります。セグメントしやすいし、対面販売するものではないですから、札幌にいて、カタログをつくって送って、ビジネスをやっていったわけです。まだ紙のカタログでした。
奥田 そういった音はどんなシーンで使われるんですか。
伊藤 たとえば、やくざ映画では拳銃の音なんかですね。つくった音を後から入れるんです。缶コーヒーをプシュッと開ける音なんかも、より鮮明にするために加工してつくった音を後から入れます。そうやって通常、音を使ってコンテンツをつくっているわけです。制作会社にとっては、いろんな音があれば、つくる作品の質が上がっていく。だからある程度、音の需要があることはわかっていました。
奥田 そういった音をつくる競合会社って、当時あったんでしょうか。
伊藤 あんまりなかったですね。レコード会社が花火の音とかをアナログのレコード盤でつくっていたくらいです。しかし、それらはデジタルと比べれば種類も少ないですし、利便性もそれほどあるとはいえない。
奥田 なるほどね。
伊藤 だけど、いかんせん買ってくれる会社の数が知れている。マーケットが小さいんですね。
奥田 伊藤さんは今すごく有名でいらっしゃるけど、あまり表には出てこられないですね。
伊藤 いやあ、有名じゃあないですよ。まあ、表に出てこないというのは、地理的に東京ではなくて、札幌だってところも大きいでしょう。それに、雄弁に語るというのが不得意ですし…。仕様書を書いてシステム設計するというのが性に合ってるんでしょうね。
奥田 経営もしっかりとやっておられる。
伊藤 でも、典型的な経営者タイプというのではないですし、クリエイターとか物を作っていく側の立場が合っているんでしょうね。だから外に出る機会は、そんなに多くはありません。
コンピュータと音楽の接点
奥田 創業されたのは?
伊藤 1995年の7月です。いきさつから話しますと、会社を創る前は大学の職員をやっていたんです。公務員試験を受けて、ごくごく普通の就職でした。
奥田 勤務先は北海道大学でしたよね。
伊藤 ええ、そうです。それで就職して、赴任した職場が研究室だったんです。高校を出て、公務員試験を受けて入ったのですが、研究室ってところは初めてでしたし、最初はちょっとカルチャーショックというかギャップを感じましたね。でも、自由な雰囲気のある職場でした。実際の仕事は学生と一緒に“研究ごっこ”をしているというような感じもありましたね。学生はみんな同年代でしたし。
奥田 どんな学科の研究室だったんですか。
伊藤 工学部の精密工学科っていうところでした。職員もどんどん研究をやりなさいというような雰囲気で、ちょっと珍しい職場だと思います。そういう環境でしたから、私の前任の先輩も後輩も職員から大学の先生になっています。私も今、北海道情報大学で客員教授として教えています。そういった自由な気風がありましたね。
奥田 そこでコンピュータにも出会われた。
伊藤 そうです、そのあたりからですね。それで、職員ですから異動がありまして、大学の電算管理システムをやるようなセクションに移って、プログラムなんかも本格的にいろいろ覚えていきました。
奥田 音との係わり合いは?
伊藤 幼い頃から音楽が好きで、大きくなってからは趣味でギターを弾いていました。仕事では当時流行り始めたコンピュータをやっていて、趣味で音楽をやっている。つまり、コンピュータと音楽の接点にいたわけです。そうした自分が興味を持ち始めたのが、コンピュータで音楽をつくっていくということだった。マルチメディアパソコンの出始めの頃ですね。大学の研究室にもあって、それを使って音楽というか音をいろいろと加工してつくっていました。
音をつくり、世界に売る
奥田 今のお仕事にだんだん近づいてきましたね。
伊藤 そうこうしているうちに、自分でつくった音をいろんな人に使って欲しいなという思いが膨らんできたわけです。
奥田 どんな音をつくってたんですか。
伊藤 シンセサイザーで加工した効果音みたいなものや、荘厳な感じの小曲やダンスミュージックのようなものなど、いろんな音ですね。それで、そういう音をどうすれば多くの人に使ってもらえるかを考えていたんです。本屋さんに行ったら、たまたま『キーボード』という音楽系の雑誌に出会いました。英語の雑誌で、後ろのほうに個人広告を載せるスペースがあるんです。何ドルか支払えば、誰でも広告が載せられるというものです。三行広告ですね。よし、これに広告を載せてみようと思ったんです。
奥田 どんな内容の広告だったんですか。
伊藤 「自分の音を売ります」、そんな感じですね。
奥田 まだ大学職員の頃ですね。
伊藤 そうです。それがまあビジネスの世界に入るきっかけになったんですね。そうやって広告を出していると、世界中に流通しますから、いろいろな国の人から、エアメールで問い合わせがくる。まだインターネットが普及する前の時代ですから。
奥田 問い合わせはどのくらい来たんですか。
伊藤 段ボール箱一杯はありましたから、1000通近くあったでしょうか。
奥田 広告料はどのくらいでした?
伊藤 1回50ドルくらいだったですね。毎月出稿して、5年くらい続けていました。
奥田 ビジネス的にはどうだったんですか。
伊藤 当時のことですから、フロッピーディスクに音を入れて売るわけですけど、けっして儲かりはしませんでしたね。収支とんとんといったところでした。でも、世界中の人たちと連絡がとれるということが、非常にフレッシュな感じでしたね。今はインターネットがありますから、世界につながることにそんなにフレッシュ感はないかもしれませんけれど。
奥田 そのフロッピー・ディスクは、1枚どのくらいの価格だったんですか。
伊藤 10ドルほどでしたから、千数百円というところですか。そうしているうちにだんだん円高になってきて、収支もとんとんから厳しくなってきて、そろそろやめようかと思っていたところに、逆の話が舞い込んできたんです。
奥田 逆の話というと?
伊藤 世界中の音好きの人とやりとりをしていたわけですけど、そのなかの何人かから「音をつくったので、日本で売ってくれないか」という依頼がきました。海外でつくった音を日本で売る、と。ちょうど円高だったので、有利なわけです。じゃあ、試しにということで、日本の媒体に広告を出して実験的にやってみることにしました。
奥田 どんな媒体ですか。
伊藤 リットーミュージックから出ている『サウンド&レコーディング・マガジン』という、コンピュータで音楽をつくるのが好きな人のための雑誌です。そこに出稿したわけです。ただ、音を売るというのは日本では誰もやったことがないので…。
奥田 当時はまだ、そうだったのでしょうね。
伊藤 ええ、だからうまくいくかどうかはわからなかったけれど、僕自身が欲しいから他の人も欲しいだろうという安易な考えで始めました。でも、やっているとそこそこ物も動くし、だんだん引っ込みがつかなくなって、会社を立ち上げたわけです。
奥田 それは何年のことですか。
伊藤 1995年の7月です。
奥田 二足のわらじの時代がけっこう長かったんですね。
伊藤 そうですね。自分の音を世界に売ることを88年頃から93年頃まで5年間ほどやっていて、そこからさらに世界の音を日本で売るビジネスを始めて、95年に会社を作った、というのが経緯です。
奥田 だんだんビジネスっぽい話になってきました。
伊藤 会社をつくって最初に決めていたことは、音に特化したことだけをやろうということでした。いろんなところに手を伸ばしても、結局中途半端になる、音だけで商売をやっていこうと。
奥田 売る相手は?
伊藤 番組を制作するテレビ局や映画会社、ゲームをつくるプロダクションなんかですね。非常に限定的なジャンルなので、マーケティングはしやすい面があります。セグメントしやすいし、対面販売するものではないですから、札幌にいて、カタログをつくって送って、ビジネスをやっていったわけです。まだ紙のカタログでした。
奥田 そういった音はどんなシーンで使われるんですか。
伊藤 たとえば、やくざ映画では拳銃の音なんかですね。つくった音を後から入れるんです。缶コーヒーをプシュッと開ける音なんかも、より鮮明にするために加工してつくった音を後から入れます。そうやって通常、音を使ってコンテンツをつくっているわけです。制作会社にとっては、いろんな音があれば、つくる作品の質が上がっていく。だからある程度、音の需要があることはわかっていました。
奥田 そういった音をつくる競合会社って、当時あったんでしょうか。
伊藤 あんまりなかったですね。レコード会社が花火の音とかをアナログのレコード盤でつくっていたくらいです。しかし、それらはデジタルと比べれば種類も少ないですし、利便性もそれほどあるとはいえない。
奥田 なるほどね。
伊藤 だけど、いかんせん買ってくれる会社の数が知れている。マーケットが小さいんですね。
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日々の廃文 - 2009-07-06 18:42:12















